『苦海浄土』と『マーヴィン・ゲイ物語』


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『苦海浄土』(講談社文庫)を新装版で読んでみた。方言で語られる当事者のことば(部外者にはよくわからないが地域ごとに細かなバリエーションがあり、それに応じて書き分けられている)、筆者視点からの記述、各種公式文書などが織り交ぜられ独自の世界をつくりあげている。2004年に出版された新装版では野口正純氏による「解説 水俣病の五十年」が追加されており、それを目当てに読んだのだが、渡辺京二氏の「解説 石牟礼道子の世界」を読んで、はっとさせられた。こんなくだりである。

私は先にこの作品は石牟礼道子の私小説であり、それを生んだのは彼女の不幸な意識だと書いた。(中略)彼女には『愛情論』という自伝風なエッセイがあり(「サークル村 三十四年十二月、三十五年三月」)、それに書かれた幼時の記憶は『わが不知火』(「朝日ジャーナル 四十三年度連載」)などでも繰り返し語られている。これらのエッセイで、彼女は幼い時に見てしまった、ひき裂けたこの世界の形相を何とかして読むものに伝えようとし、それがけっして伝わるはずもないことに絶望しているかのようである。

酒乱の父、弟とともに家を逃げ出す母、そして精神を病んだ盲目の祖母とのふたりきりの世界。これを渡辺京二氏は「ひとつのひき裂かれ崩壊する世界である」と形容する。

石牟礼氏が『苦海浄土』で、崩壊しひき裂かれる患者たちとその家族たちの意識を、忠実な聞き書きなどによらずとも、自分の想像力の射程内にとらえることができるという方法論を示しえたのは、その分裂と崩壊が彼女の幼時に体験したそれとまったく相似であったからである。『愛情論』で語られているような家庭的な不幸は、近代資本主義がわが国をとらえた明治以来、幾千万というわが国の下層民たちが経験して来たことであった。だが、『愛情論』の筆者が語ろうとしているのは、家庭の経済的な没落や父の酒乱や祖母の狂気という現象的な悲惨ではなく、そういう悲惨な現象の底でひきさかれている人びとの魂であった。

『苦海浄土』は、そのような彼女の生得の欲求が生み出した、ひとつの極限的世界である。彼女は患者とその家族たちに自分の同族を発見したのである。なぜなら、水俣病患者とその家族たちは、たんに病苦や経済的没落だけではなく、人と人とのつながりを切り落とされることの苦痛によって苦しんだ人びとであったからである。彼女はこれらの同族をうたうことによって自己表現の手がかりをつかんだのであって、私が『苦海浄土』を彼女の不幸な意識が生んだ一篇の私小説だというのもそのためにほかならぬ。

『苦界浄土』は一部聞き書きのようなスタイルをとっているが、じつは長期にわたる詳細な取材に基づいて書かれたルポタージュではまったくない。先日の送る会でも「苦海浄土は石牟礼道子さんによる一大叙事詩である」と語っていた人がいたが、まったくそのとおりだと思う。それを渡辺京二氏は「私小説」であると言い、旧文庫版のあとがきで著者である石牟礼さん自身は「誰よりも自分自身に語り聞かせる、浄瑠璃のごときもの」と書いている。

「ゆき女きき書」や「天の魚」が物語として書かれたとはにわかには信じがたかったが、今ならよくわかる。海のなかにまでおよぶ四季折々の情景、土地の言葉で心の機微までさらけだす語り、病におかされた身体の動きと、そこに居合わせた人たちとのやりとり。これらは取材だけではほとんどカバー不可能だ。

膨大な時間をかけてもここまでのディテールを掬いとるのはなかなか難しいだろう。ごく親しくしている人たちの家に住まわせてもらい、24時間行動をともにしたとしても、ここまでのものが書けるかどうか。それを石牟礼さんは登場人物と一心同体化することで軽々と跳びこえた。『苦海浄土』は水俣を舞台とした凄惨でうつくしく、哀しい絵巻物語のようなものなのだ。

『苦海浄土』と同時に『マーヴィン・ゲイ物語 引き裂かれたソウル(原題:Divided Soul : The Lif of Marvin Gaye デヴィッド・リッツ著 吉岡正晴訳)』を読んでいた。マーヴィン・ゲイも引き裂かれた魂をもつ人である。父親からの虐待、自意識過剰、嫉妬、傲慢、甘え、破滅指向、虚言癖、女装への憧れと嫌悪、神への憧れと罪の意識。「うーん、お前がWhat’s going on(どうしたっていうんだい)だよ」と突っ込みながら読んでいたのだが、引き裂かれた魂と無間地獄に苦しむ人が優れたアルバムをつくりだす、という過程は『苦海浄土』とよく似ていた。

この本を読むきっかけは『マービンゲイの真実(原題:Marvin Gaye Behind the Legend)』というドキュメンタリーを観たところ、知りたいことがほとんど何も描かれていなかったからだった。たとえば最初の妻でありモータウン社長ベリー・ゴーディーの姉であるアンナ、二番目の妻であるジャニスとの確執、最後まで苦しめられたステージ恐怖症、金銭、ドラッグ問題など、とおりいっぺんの記述しか出てこない。その点『マーヴィン・ゲイ物語』は膨大なインタビューと著者の視点から構成されており、かなり読ませる内容になっていた。

ほかになにかドキュメンタリーはないのかと思って調べてみたところ、BBCが制作したドキュメンタリー(1時間番組)がYouTubeに上がっていた。

さっき見つけたのでまだ未見。BBCのブルース、ソウル特集はよくできているものが多いのでちょっと期待してるのだが、果たしてどうか。