『文化とは何だろうか』


ときどき鶴見俊輔の本が読みたくなる。というより鶴見さんの「ことば」に触れたくなるのである。先週は『文化とは何だろうか 鶴見俊輔座談』を読んだ。


(画像via Amazon。犀のマーク、装幀・平野甲賀といえば晶文社。1996年初版)

鶴見俊輔座談は全10巻が出ていて、テーマ別に各年代の座談記事が収められている。タイトルを並べるとこんな感じ。

日本人とは何だろうか
思想とは何だろうか
学ぶとは何だろうか
近代とは何だろうか
文化とは何だろうか
家族とは何だろうか
戦後とは何だろうか
民主主義とは何だろうか
社会とは何だろうか
国境とは何だろうか

『文化とは何だろうか』は総ページ450ページあまりで、座談13本が収められている。初出は1956年から1992年で、今読むと話題が旧いなと感じるところもあり、そんな人やものを高く評価するのか、とちょっと意外に思う部分もあったりする。それでも読んでしまうのは、ときどき「この人、すごいこと言うなあ」と思わされるからだろう。たとえば手塚治虫、中山茂と語った「漫画と記号」で鶴見さんは、こんなことを言い出す。

鶴見 造物主としての悪事を感じるんですか。
手塚 すごく感じますね。つまり、いろいろ運命を手に握っているという感じで。それに政治家じゃないけれども、いろんな規約や法律をとりしきったり、運命のプログラムまでぶつけていって、そのとおりさせるわけですから。
鶴見 わたしはこういうふうに感じるときがあるんです。神にもし良心があるとすれば、恥じて自殺したに違いないと思うんです。造物主であれば、造物主の感じる悪事があると思う。

要するに鶴見さんは「神は死んだが、その死因は自殺に違いない」「もし神がまだ生きているとすれば、その神には良心がない」と言っているのである。これにはちょっと唸った。

完全なる造物主に悪事を感じる良心があり(完全なのだから当然良心もある)

自分のなかに悪事を感じるなら(神でさえ自分だけが感じる悪事をもっているはずである)

彼は恥じて自殺するだろう(では、あなたはどうか)

この発想はなかった。こういうのを哲学というのかもしれない。

漫画雑誌「ガロ」の創刊編集長、長井勝一さんとの座談(「ガロ」の度量)もなかなか面白い。というか長井さんという人が面白いのだ。この人はテレビの座談番組に出演した際に、ひと言も喋らなかったという伝説の持ち主である(座談会に参加した人の漫画批評があまりにひどく、呆れてものが言えなかった、というのが真相らしい)。長井さんなりに憤慨したということなのだが、それでも「テレビに出演してひとこともしゃべらないというのは、大変な芸(鶴見俊輔)」には違いない。

長井さんがどうしてガロを創刊し、その後どうやって本を出してきたかについては『ガロ編集長』(ちくま文庫)という本にも詳しく書いてあるが、この本も例によって絶版である。

女性や若者に向ける視線がやさしくするどいことも、鶴見俊輔の特徴のひとつだと思う。たとえば赤川次郎との座談「本を読み、映画に会う」には、こんなくだりがある。

鶴見 (前略)わたしは狭心症があるので定期的に病院へ行くんですが、ある日、待合室で坐っていたら、わりあいに若い看護婦がものすごく動揺していた。何かあったんでしょう。そうしたら、一年か二年、わずかしか旧くない看護婦が、すっと彼女の手を触った、二秒か三秒か。それを見ていて、女の文化はここにあるなあと思ったんです。男だったらできませんよ。触れたのはほんの一瞬です。それで動揺を鎮める力がある。

若い頃はペダンティックな物言いで人を幻惑するのが哲学者かと思っていたのだが、鶴見さんを知ってどうやらそれは違うようだ、と気づかされた。

自分自身を市民から切り離されたエリートと考えず、一般の人と同じか、もっと低いところへ置く。そして、その側にこそ真理があると考える。普通のことばで、あまり人が思いつかないようなことをずばりと言う。それは世の中をひねくれた角度から見ている人間にしかできないことだ。「ひねくれた角度から見る」を「普通の人には見えないはずの盲点を、思想によって透視する」と言い換えれば、それは本来の意味での哲学なのである。