『ブレードランナー 2049』


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DVDが出たので『ブレードランナー 2049』観た。今さら言うまでもないが『ブレードランナー(1982年)』の35年ぶりとなる続編である。監督はドゥニ・ヴィルヌーヴ、制作総指揮がリドリー・スコット、ハリソン・フォードがデッカード役で出演というのも話題となった。主演は『ラ・ラ・ランド』の、と言ってはいけないのかもしれないが、その形容は避けて通れないライアン・ゴズリング。監督、主演俳優ともにカナダ出身だ。

リドリー・スコットの作品とは、ここのところどうも相性が悪い。プロメテウスもエイリアン・コヴェナントもダメだった。エイリアン〜の方は、別のエントリにも書いたような気がするのだが、飛行機の中で何回も観ようとして毎回途中で挫折した。結論から言うと『2049』に感じた印象は、基本これらの映画と同じだった。要約するとこんな感じ。

1)基本プロットとどんでん返し、エンディングという柱が決まっていて、映画はその柱の間をさしたるドラマもないままに進んでいく
2)陰鬱な風景描写と、同じく陰鬱で強迫症的なBGM(音楽担当はハンス・ジマーとベンジャミン・ウォルフィッシュ)
3)おそらくはキューブリックを意識していると思われる凝った映像

絵柄は美しいし、後半ハリソン・フォードが出てくるシークエンスでは、おおついにデッカードが(35年待った甲斐があった)と思ったりもするのだが、なんというかストーリー展開に魅力がない。プロットもひねっているようでひねっていないのでなんとなく次が読めてしまう。思えばスター・ウォーズのローグ・ワンもそんな映画だった。新作が出るたびに複雑な思いを抱くスターウォーズ・ファンは決して少なくないと思うが、あれは「若い頃のレイア姫」が観られたのでこの際すべて赦そうか、という作品であったような気がする。

どこで読んだか忘れてしまったが、主要登場人物がみんな死ぬというローグ・ワンのエンディングはディズニーが変えさせたものだったはずだ。理由はエピソードⅣとの整合性がとれなくなるからで、たしかにそれはそうかもしれないが、監督の主張が容れられない作品のあり方ってどうなんだろうと思わずにはいられない。ちなみに最近の大作映画では監督がファイナルカット権をもっていないというケースもままあるという。

デジタル化が進み映画がローコストで撮影できるようになる。それはそれでいいことかもしれないが、現場のモニターですぐプレイバックできるので監督以外の人間(映画会社の重役やプロデューサー、あるいはスポンサー)がよってたかって意見を述べるということも起きている。撮影監督という職種の存在価値もかなり危うくなっていて、そういう映画の現状については2012年の映画『サイド・バイ・サイド』でも採り上げられていた。

個人的には「フィルムかデジタルか」論争より制作現場、あるいは制作過程における意識変化の方が深刻な問題をはらんでいるように感じられる。

この映画では触れられていないが、その後Netflix、Huluなどストリーミングサービスが普及するにつれ、スマートフォンで映画を観る人が増えた。そうなると今度はスマートフォンの小さな画面に最適化した絵柄づくりをしろ、という話が出てきたらしい。具体的には登場人物が画面の真ん中に大きく映る「寄り」のカットを多くしろと言われるのだという。こうした基準を適用するなら「引き」のカットや丁寧なストーリー展開は間違いなく「刺激が乏しくテンポが悪い」と批判されるだろう。

かくいう自分も60年代以前の大作映画を観るとストーリー展開のテンポがゆっくりすぎて、かったるく感じることがときおりある。しかし何度観ても飽きない映画というのはストーリー展開が丁寧で、登場人物のキャラクター描写も繊細であることが多い(もちろん例外はあるが)。どちらも現代的な基準で言うなら地味で刺激に欠けるという評価になるのかもしれない。

映画というメディアのもつ力が衰えてきているということは日常的に映画を観ていても感じる。ひたすら刺激と爽快感をもとめた結果、ストーリー展開は粗雑になり、カメラはやたらとぐらぐら動くようになり、長く心に残るようなストーリーには、ごくたまにしか巡り合うことができなくなった。テレビドラマシリーズも同じだ。シリーズを続けることが自己目的化した結果、無残な残骸だけが残る。決定的不人気か出演者のセクハラ問題でも起きないかぎり、それでもシリーズは続いていく。終わりたくても終われない人気漫画連載のようなことが、今やあちこちで起きているのではないだろうか。

いまNetflixを観ていて面白いなと感じる番組は、おもにトーク番組だ。ジェリー・サインフェルドの『Comedians in cars getting coffee』など、ヴィンテージカーに乗ってゲストとドライブして、コーヒー飲むだけなのだが、ついつい観てしまう。全体に漂うゆるさと軽妙なトークがこの番組の魅力なのだろう。

ステージの上でゲストと差し向かいで話すというクラシックなスタイルだが、デヴィッド・レターマンが最近始めた『My Next Guest Needs No Introduction With David Letterman』もやっていることの本質は同じだと思う。

レターマンの番組ではステージ上のトークだけでは変化に乏しいのでロケで収録した映像が適宜入る。ゲストの意外な一面が見られて面白いと思う一方、ステージ上のトークだけでどんどん盛り上げればいいのにと思う自分もいたりする。視聴者というのは放っておくとどんどん贅沢になっていくものらしい。