「ドキュメンタリーを考える」を見て考えたこと


ここ最近、自分が書いているもの、興味をもって取材を進めているものは歴史、社会、ドキュメンタリーといった分野に属する題材であることが多い。同じような題材を捉えた書籍とその書き手、ドキュメンタリー映画とそれを撮った映像作家/映画監督、日常を切り取る写真家などに興味があるのは、おそらくそのためだ。

日本映画チャンネルで放送された「是枝裕和×想田和弘 ドキュメンタリーを考える」も、その一環として見た。

https://eiga.com/news/20180601/19/
(映画.comの対談紹介記事)

対談のなかで是枝さんが想田さんに「なぜ、あんなシーンが撮れてしまうのか」と訊く場面がある。自分の作品を「観察映画」と呼ぶ想田さんは、いわゆる事前取材やリサーチ、現場での仕込みなどを一切おこなわない(台本も書かない)。その代わりに現場に密着し、ひたすらカメラを回し続ける。映っているのはいつもの日常なのだが、そこには普段見逃していた意外なディテールがあり、写される人たちが突然、カメラに向かって思ってもみなかったようなことを語り出したりもする。「なぜ、あんなシーンが撮れてしまうのか」という問いは、このことを言っている。

このとき想田さんはちょっと考えて「後ろめたさじゃないですかね」みたいな答え方をしていた。番組のなかでは、ふたりとも今までのドキュメンタリーは第三者の視点からとらえた〈三人称〉が多かったが、これからは〈二人称〉であるべきでは、というようなことも話していて、これは自分の実感とも非常に近い。


(なぜドキュメンタリーを撮るのか、という想田和弘さんのインタビュー。映画『Peace』公開後のもの)

二人称とは「わたしとあなた」という関係性のなかで世界を捉えることで、これはいわゆる「客観性原理主義」の人からしてみれば「対象に関与しすぎていて、客観性が担保できない(これではドキュメンタリーにならない)」ということになる。しかし現場に取材者がいれば、それはいつもの日常のなかに他者がいることにほかならず、その他者がいることでいつもの日常とは違う何かが自然発生してしまうものなのだ。(レヴィ=ストロースも、たしかそんなことを書いていた)

それを意図的に無視して「極力存在を感じさせないよう配慮した」などと述べるのは詭弁であると思う。現実世界に「誰にも何にもタッチしない、完璧に切り離された観客席」など存在しないからだ。それは日本の新聞テレビが言うところの「公正中立」みたいなもんである。そんな戯言を言って自分を正当化する余裕があるのなら、取材対象に対してもっと誠実に向き合うべきと思うが、誠実に向き合う気がないからこそ(現場で傍若無人にふるまう一方で)「十分配慮した」などと言えてしまうのだろう。

話が横道にそれたけれど、要するに〈二人称〉ドキュメンタリーとは取材対象と誠実に向き合い、自分の目からはこう見えたという「ひとつの事実」を、誰にも忖度することなく、きっちり提出することである。ここのところ多くのドキュメンタリーがつまらないのは、この領域に踏み込むことを恐れて過去のアーカイブの羅列、実際に起きたできごとをなぞっているだけの作品が多いからだ、とぼくは思っている。

彼らがそれを客観性だと思っているのか、踏み込んだときに起こる批判を恐れているのか、それともその「踏み込み」を制作サイドが許さないのかは、よくわからない。実際にはすべてが絡み合ってのダメさなのだろう。

対談番組を見てなるほどねと思い、まず想田さんの最近の著書を読んでみた。『なぜ僕はドキュメンタリーを撮るのか(2011)』『日本人は民主主義を捨てたがっているのか?(2013)』『熱狂なきファシズム:ニッポンの無関心を観察する(2014)』あたりは目を通していたが、そのあと出た本は未読だったのである。

まずは2015年に出た『カメラを持て、町へ出よう 「観察映画」論』。東京・渋谷にある映画美学校でおこなわれた短期集中講座の内容を書き起こし、大幅な加筆修正を加えたもので、それまであまり触れられることのなかった撮影機材、撮影テクニック、編集などについても語られている。受講者との質疑応答も収録されていて、こちらもなかなか面白い。個人的に気になったのは、こんなくだり。

僕は基本的に、少し情報が足りないくらいがちょうどいいと思っています。作り手から「ああですよ、こうですよ」と懇切丁寧に情報を与え[られ]てしまうと、観客は受動的になってしまう。逆に作り手から示される情報が足りないと、観客は自分の目と耳を駆使して、自分から取りにいくんですよ、情報を。(中略)僕はこれを「観客の観察眼を起動させる」と呼んでいます。

(映画『選挙』で同級生の山さんに、なぜ選挙に出たのか動機を訊かなかったことについて)

たとえ山さんに「なんで選挙に出るの?」と質問したとしても、本人も意外にわからないんじゃないかと思う。僕は「なんで映画を作るの?」って聞かれれば一応答えますけど、なんとなく嘘くさいですよね、そういう答えって。それが100パーセント本心かっていうと、そうでもなかったりするし。(中略)だから、「一番大事なことはあえて聞かない」っていう奥ゆかしさが必要なんじゃないか。そのほうが想像が膨らみますし、一番大事なことについて聞いて答えられちゃうと、それが答えだと思って想像のプロセスが止まっちゃう。もったいないですよね。

昔だったら(もしかしたら今も)「ドキュメンタリーに奥ゆかしさなんていらねえんだよ」と一喝されて終わりとなるところ、想田さんは「一番大事なことはあえて聞かない」ことで、観客ひとり一人に考えてもらおうとする。これは観客の観察力を信じているからこそできることで、その根底にはどんな考えかたであっても、それが個人の考え=多様性というものだ、という認識があるような気がする。


(画像via Amazon)

ついで『観察する男 映画を一本撮るときに、監督が考えること』(ミシマ社刊・2016年2月初版)を読む。こちらは映画『牡蠣工場』の制作過程に密着し、都合5回おこなわれたインタビューを書き起こしたものだ。インタビューは時系列順に撮影前、撮影後、ログ起こしの途中、編集完了後、ロカルノ映画際招待決定後という順番で並んでいて、話を聞く場所は世田谷美術館であったり、都内の喫茶店であったり、スカイプを経由した先にあるニューヨークであったりする。合間には『牡蠣工場』のあらすじや、マガジン9に寄稿したエッセイなども挟まれている、

想田さん自身の生い立ちについても、けっこう詳しく語られていて興味深いのだが、やはりそうなのか、と思わされたのは本ができた経緯を説明する「あとがき」である。

とはいえ、僕はこの時点でもまだこの本の未来については半信半疑であった。なにしろ、これから撮る映画が映画として成立するかどうかもわからないのである。だから僕はその気持ちを正直に伝えた。(中略)

実は、僕の映画づくりの過程を取材させてほしいという申し出は、今までにもテレビ・ドキュメンタリーの制作者などから何度か受けていた。しかし、僕が「僕の映画、いつ撮影が始まるかわからないし、撮影が始まっても、もしかしたら完成しないかもしれないんですよ。それでもいいんですか」と念押しすると、だいたいはそこで怯み、話は立ち消えになった。

彼らはたぶん、台本も予定もない観察映画のつくり方に共感して、取材の申し出をしてくださったのだろう。しかし、自分たちが観察映画のごとく台本も予定もなく舟を漕ぎだすことには、やはり躊躇した。時間的・予算的制約の強いテレビの現場では、たぶんそういう余裕もなかった。

現場のスタッフが追いかけたいと思っても、いつまでにどれくらい、という保証がなければ稟議書に判をついてもらえない。日本の会社というシステムがもつ悲哀が、ここに凝縮されている。


(画像via Amazon)

是枝さんの本は、たまたましばらく前に読んでいた。『映画を撮りながら考えたこと』。2016年6月初版でこれもミシマ社刊である。これまでの経歴、日本の映画業界が抱える問題点、自分を育ててくれたテレビ業界に対する思いなど、批判もきっちりしつつ、よくまとめられている。おそらくこれも語りおろしだろう。

よくまとまった語りおろしは読みやすく、面白いのだが、個人的には『観察する男』も『映画を撮りながら考えたこと』も、ちょっと物足りないなと感じた。率直に言って「きれいにまとまっていて読みやすい」という本に飽きたのである。もっと突っ込んだ話が聞きたいと思っても、なかなか脱線していかない。しつけがよく、ストーリーの運びに無駄がないとも言えるが、その無駄のなさは同時に「勢いのよさ」「豊かさ」「深さ」みたいなものも奪ってしまっているように感じられた。

これはひとつには編集が〈第三者的視点〉にとどまろうとしているために起きていることではないだろうか。〈二人称〉で踏み込めば、もっと多様でスリリングな世界が広がっていくと思うが、多くの編集者あるいはライターは、いまだに「存在を極力感じさせないことが美点で、出しゃばりすぎるのはよくない」と考えているのかもしれない。これでは「客観性原理主義」のドキュメンタリー制作者となんら変わらない。本の作り手も殻を破るときにきていると思う。(もし未来があるとすればだが)

参与観察の功罪を意識しつつ、作品世界に深く踏み込む。〈二人称〉で語りながら一線を守る誠実さ、奥ゆかしさも忘れない。いま歴史、社会、ドキュメンタリーを扱う本は、そういう姿勢でいいと思うし、依頼があったらそういう本もつくってみたいのだが、このご時世、一介のフリーランスにそうそう美味い話は転がり込んではこない。そんなわけで、このエントリを書いてみた。

ここ数年、細々と取り組んでいる題材を追い続けることのほうが今の自分にとっては大事だし、そのテーマを通じて〈二人称〉で語るほうが、いろいろと建設的でもある。やはり作り手、書き手は作品で語らなければいけないのである。