『日本百年写真館』はエッセイも面白い


林忠彦展を観に行ったら昔の日本の写真を眺めたくなってきて「日本百年写真館 Ⅰ&Ⅱ」など読んでみた。


(朝日新聞社編 朝日文庫刊)

昭和49(1974)年から50(1975)年にかけて週刊朝日に連載された〈「わが家のこの一枚」に見る日本百年〉というグラビアがあり、その連載と週刊朝日別冊2冊分の写真・記事、さらに未掲載写真などを交えて再編集されたものだ。Ⅰ、Ⅱとも初版は昭和60(1985)年。

幕末〜明治維新の頃から戦前、戦後に至るまで幅広い年代の写真が収められているが、維新〜明治の頃というと写真機は自転車、自動車などと並ぶ高級品だった。撮影料も高額で肖像写真や記念写真を撮っているのは武士、裕福な商家、企業家、政治家といった人たちが中心となっている。その意味では市民の肖像というよりは日本上流社会の肖像といった感じではある。明治〜大正期の写真はとくにその傾向が強い。

まえがきにも書かれているが「わが家のこの一枚」に見る日本百年という企画は、いいグラビアのアイディアがなかなか出ないなか、やっと思いついたものだったという。当時は石油ショック後の不景気、ライバル誌の「週刊現代」は利き腕カメラマンを擁して毎号斬新なグラビアを載せている。これを凌ぐ企画はないものか。週刊朝日のスタッフは連日企画会議に明け暮れたそうだ。

ある夜、ある部員が、「古い写真館には昔の写真があるにちがいないから、各県別にやったら案外面白いかもしれない」と言った。これは、まさに天啓のヒントであった。(中略)翌朝、私の脳裏を瞬間よぎった思い出があった。戦時中の金属類の供出風景であった。寺の鐘も学校の銅像もすべてが貨車にのせられていったのだった。
「そうだ! 写真館だけではない。一般家庭のアルバムだ! アルバムの供出だ! わが家の一枚なんだ!」

(岡井耀毅氏によるまえがきより)

こうして生まれた連載は思わぬ大ヒットとなった。85年における100年前(1885年)は2018年時点ではだいたい130年前にあたるのだが、幕末〜明治維新、大正、戦前の昭和といった時代を写し取った写真を見ても、もはやさほど時代が流れたとは感じない。50年も経てばすべてが「大過去」になってしまう、ということも大きいだろう。

写真の合間には著名人の書いた短いエッセイのような文章が収められていて、これもなかなか興味深い。昔の女性こそほんものの女性だった、それに比べていまの女性は白痴的西洋かぶれであるとオダを上げる小説家(水上勉)、みずからの震災体験を語りつつ「私は震災の写真は見たくない。それに大きな歴史的価値があることは知っているけれども、見るたびに不愉快になり、そのうち写した人への憎しみを感じ始める」と書いた社会学者(清水幾太郎)。清水幾太郎は文章の最後でこうも書く。

歴代の総理大臣や東京都知事は、ノーマルな平常時においてさえ理性的存在ではないようである。一日一日と大地震が近づいているのを知りながら、それによって、東京都だけでも何百万人かが死ぬのを知りながら、なにひとつ有意味な対策を立てようとしていない。(中略)何百万の日本人が黒く焦げ赤く膨れた死体になってから、高性能のカメラを携えて視察に出かけるつもりなのであろう。

残念ながら、これは現在にもそのまま当てはまる。東日本大震災、福島原発事故への対応など見ていると、視察に出かけはしたものの、その後は放置、ややあって棄民政策という最悪のルートをたどっている(熊本の震災対応も同じようなものだった)。日本はなにも変わっていないのだ。

エッセイはどれも文庫本4〜5ページほどだが、思わずうまいと唸ってしまうものもある。たとえば藤本義一。写真に写っている物象(明治30〜40年代の大阪)からさまざまなものを読み取るだけでなく、想像の触手は道楽者だったという撮影者の日常にまでおよんでいく。

あるいは土砂降りの難波橋にカメラをもってきた撮影者の心意気にうたれるのだ。
「あんた、こんな日に、なんにも撮しに行きはらへんでもよろしいがな」
と、とめる女房ふりきって、大事な舶来カメラを風呂敷に包み、三脚かついで下駄履きで飛び出していくカメラ狂の姿が思い浮かんでくる。
「あんな、そないな高い写真機濡らしたら、えらい損でんがな」
「なにぬかしてる。こういう日に撮らないかんのや」
「なんでですのや」
「なんでて。素人のお前らにはわからへんのや」
と、雨の中を飛び出し、絵葉書でない雨の難波橋を撮ろうとした大阪男の根性を思い出すと微笑が湧いてくる。金に拘泥するだけが、決して大阪の男ではないのであって、こういう滑稽さを想像さすところが大阪男の執念(と同時に阿呆さ加減)なのである。

こんなふうに飄々と書き継いでいって、文章の最後には吉本新喜劇のようなオチがついている。こういう名人芸、ふと手にした読み物で目にしなくなって久しい。

個人的にもっとも目を引かれたのは道行く行商人を撮影したシリーズだった。「道の商いが“風物詩”だった頃」と題した小沢昭一のエッセイによると、東京の路地から物売りが姿を消したのは戦争中のことで、その後あの独特の声や音がよみがえることは、ついになかったという(紙芝居や豆腐売り、竿竹売りなどはやや持ちこたえた感がある)。ところが小沢昭一は、それがなくなって寂しいなどとは書かない。あくまでも市民の側に立ち、行商人とはなんだったかしっかりと見たところを述べる。それは社会に対する鋭い批判にもなっている。

過ぎし“よき時代”を人々は懐かしがり、物売りの声のなくなったのを寂しがる。
しかし、かつての道の商いは、まぎれもなく、貧民、細民の、やっと生きる手だてなのであった。「妻や子の待つらん今日も空〈から〉車」──これは人力車夫のことだが、多かれ少なかれ大道を流す商いは、その日の命を持ちこたえる稼ぎだったのである。“定着社会”から眺めて“街の風物詩”でも、誰が街の詩になりたくて、傘やこうもり傘と流して歩くものか。詩よりも死が問題なのであった。

安易な感傷に流されず「誰が街の詩になりたくて、傘やこうもり傘と流して歩くものか」という心をもちつづける。あるいは他人ごとではなく、自分がその立場だったらどうだろうか、という自分ごととしての視点をもつ。短い文章の最後で小沢昭一はこう書いている。

不況がくるという。
みんなで一緒に貧乏になるなら、こんな結構なことはないが、必ず貧富の差がはげしくなって細民があふれるにきまっている。
“風物詩”は復活するかもしれない。
これは嬉しいことであろうか。

こういった文章を読むと、日本という国が幕末〜明治維新、戦前〜戦中という歴史のなかにいまだとらわれていることがよくわかる。ここに書かれているのは現在の日本で進行中のことでもあるからだ。