「見えない壁」に囲まれながら旅をする


海外から帰ってきて日本の日常生活に戻るたび、「これは何なんだろうか」と思ってしまうことが、いくつかある。

かつてもっとも悩まされたのは「テレビ番組が観られなくなる」「ラジオ番組が聴けなくなる」という症状だったが(どちらもあまりに無内容に思えて耐えられなかった)、地上波テレビを観ない、ラジオを聴かないという生活スタイルになってからは、このギャップに悩まされることはなくなった。

代わりに悩まされるようになったのは「街を歩いているときの人と人との関係」である。通りを向こうから歩いてくる人がいても、まず目を合わせることはない。会話などもってのほかという感じ。これはちょっと、というか、かなり寂しい。

 

今日、違和感を感じたのはスーパーマーケットのキャッシャーで勘定を済ませるときだった。

キャッシャーにいる人が仕事をしながら、ずっと謝っている。「大変お待たせしました」「お待たせして申し訳ありません」列に並んでいる全員にそう言ってまず謝る。謝罪しなければ関係が始められないかのようだが、関係といってもとくに会話があったりするわけではない。申し訳なさそうな表情を浮かべている係の人も多く、笑顔はほとんど見られない。

キャッシャーの横にハンドスキャナがあって、それがホルダーから外れてケーブルともどもカウンターの下まで伸びたままになっていた。誰も気づかないのかな、と思って見ていたのだが自分の番が回ってくるまでハンドスキャナのユニットはそのままだった。目には入っているのかもしれないが、みんな無視しているのだ。

ぼくがスキャナユニットをつかんでホルダにかけると、キャッシャーの女性はぼくに対して「申し訳ございません」と言い、さらに「大変お待たせしました」と謝ってから商品の登録を始めた。なぜみんな見て見ぬ振りをするのか。なぜキャッシャーの女性は「ありがとう」と言えないのか。こうした言葉には、あらかじめ謝罪しておくことでクレームを回避する、というほどの意味しか込められていない。そのことはよくわかっているのだが、それでも複雑なものを感じてしまう。

他人に無関心。しかしサービス業に従事する人も人間であり、それぞれが自分の生活をもっている。そういう当たり前のことに思い至らない社会というのは、どこかが壊れているのではないか。

アジアはそういう文化なのだ、という声が聞こえてきそうだが韓国、中国、東南アジアの国々でも、こういうことは感じたことがない。海外の街を歩く。レストランで食事をする。ショップやスーパーマーケットで買い物をする。これだけでも日本とまったく違う人間関係があることに気づくと思うのだが、そうした声もなぜかあまり聞いたことがない。

海外で体験した「うれしい経験」を「よいこと」として持ち帰り、自分の国でもちょっとずつ行動に移す。生活習慣や文化といったものは、そんなところから少しずつ変わっていくような気がする。しかしながら日本はそのような柔軟性には(今のところ)かなり欠けているようだ。

多くの人は海外のショップに入っても相手の目はあまり見ず、笑いかけたりもしないのだと思われる。現地の人たちの目には「コミュニケーションが取れているかどうか、よくわからない人」「感情がほとんど表に出ない人たち」と写ってしまうだろう。

そのような人たちをどう扱ったらいいか。コミュニケーションは一切抜き、無礼がない程度に相手をしておく、くらいしか態度の取りようがないのではないか。実際、年配の日本人観光客、中国人観光客などは、そのように扱われているようだ。

「日本スゴイ」という言説が国内にあふれる一方で、海外で日本人、とくに個人観光客を見かける機会はかなり減ってきたように感じられる。経済的な問題もあるのだろうが、個人で手配すれば海外旅行の予算はパッケージツアーの半分以下に収まってしまうことも多い(高級ホテル以外には泊まりたくない、すべての宿泊先にバスタブがなければ、という人はこの限りではないが)。要するにそれだけ旅行代理店が儲けているのだ。中抜きが事実なら、解決策はある。

だが、そこにもちゃんとエクスキューズが用意されているのである。

「予約や移動など英語がわからないから仕方ない」
「何かトラブルがあったときのことを考えると不安」
「フリータイムが多すぎると、逆に何をしていいかわからない」

これもまた日本社会の抱える閉鎖性の一側面であると思う。
我々は世界中どこへ行っても「見えない壁」に取り囲まれているのだ。