回想の人びと


仕事の合間に鶴見俊輔著『回想の人びと』を読んでいる。

対談集かと思ったら、鶴見さんが自分の友人(ほとんどが故人)と自分との付き合いについて書いた本だった。「ぼくとこの人とは、こんな付き合いをした」というエピソードが、どれもとてもいい。
鶴見さんが友人と呼ぶのは自分にない(佳き)部分をもった人たちで、その着目点は若干普通の人とは違っていた。一方で、いったん敬意を感じたなら、相手の肩書きや年齢にはとらわれなかった。
自分が教えている学生の言動があまりに素晴らしいので「この人は志において私にまさる」といって賞賛したこともある。

後藤新平の孫、国会議員鶴見祐輔の子、鶴見和子の弟として生まれた鶴見さんは生涯自分のことを不良であるといい、エリート主義を「一番病」といって軽蔑していた。
死の床にあった姉、和子さんから「あなたは私のことをずっと馬鹿にしていたでしょう」と訊かれ「まさかずっと尊敬しておりました、なんて白々しいことは言えないから黙っていた」というエピソードがある。
馬鹿にしていたのは一番病の和子さんであって、脳出血に倒れてからのあなたのことは偉いなと思っていた、子どもの頃に母親の折檻からかばってくれたことも忘れていない、と本当は言いたいのだが、そんなことを言ったって慰めにはならないかもしれない。だから黙っていた。

鶴見さんは多分に露悪的な人だが、ものごとを他人事で語らない。そこがすばらしいとずっと思っていた。必ず等身大の自分に引き寄せて考え、その人の核心になにがあるかで評価した。
ひるがえって考えてみるに、そういう人はもうほとんどいないのではないだろうか。肩書き、知名度、いい人脈をもっているかどうか、スポンサーである、代理店である、そういうことが人付き合いの優先事項になって久しい気がする。

「人生意気に感ず。功名誰か論ぜん」という。

やっぱりそういう思いでいきたいもんである。

(Originally posted on 3.12.2016)