「Le petit prince」と呼ばれた、ある男の話


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プリンスつながりで、彼の死後に出たムック本など。
当時何冊も出版されたのだが、手に入れて読んだのはこれだけだった。ミュージック・マガジンから出た本でタイトルは「プリンス 星になった王子様」という。

 

本人が亡くなったのが2016年4月21日(木)=日本時間22日(金)未明、この本の出版が同年7月14日(木)。
印刷所がどれくらい無理がきくかにもよるが、昔でいうところの「下版」は7月8日(金)、あるいは7月11日(月)といったところ。となると色校正は自動的に7月第2週の後半、入稿締め切りは7月4日(月)あたりではなかったか。

ちなみにミュージック・マガジンは毎月20日発売で、追悼特集となった2016年6月号は2016年5月20日(金)の発売。プリンスが亡くなってから1ヵ月経たないうちに店頭に並んだわけで、同業者としてこれはなかなかすごいと感心する。どんなに遅くとも17〜18日には印刷が始まっていないといけないので、色校正は16〜17日、入稿は13日(金)を基本として、こぼれた分は16日(月)に突っ込んだのではないだろうか。企画、ページ割り、執筆者への依頼などはプリンスの訃報が届いた直後から始め、レイアウトなどはゴールデンウィークをすっとばして突貫作業で進められたと予想する。

http://musicmagazine.jp/mm/mm201606.html

というわけで、このムックはその6月号の突貫作業を終えたあと、2016年7月号(6月20日=月曜日発売)、2016年8月号(2016年7月20日=水曜日発売)といった通常号の合間を縫って編集されたと思われる。7月号の特集は「90年代の邦楽アルバム・ベスト100/チャンス・ザ・ラッパー」、同8月号は「坂本慎太郎/音楽と政治」だった。

「星になった王子様」というタイトルに関してはAmazon.co.jpでも「なんで王子様なのだ、プリンスは殿下と呼ぶべきだろう」というレビューがあったが、プリンスは背が小さいことを嘲笑する意味も込めて、ときに「Le petit prince」と呼ばれることがあった。「Le petit prince」を直訳すると「ちいさな王子さま」で、これはサン・テグジュペリの著書『星の王子さま』の原題だ。

亡くなった=星になった、「Le petit prince」=小さな王子さま、というところからつけられたタイトルだとすれば、ひとひねりあって、まあ悪くない。ただ、このあたりの文脈が読めないと本名にかけた、ただの陳腐なタイトルに見えてしまう可能性はある。その意味では優れたタイトルではないとも言える。

そういえば収録されている湯村輝彦画伯のイラスト(おそらく再録)を「イラストが安っぽくて苛立つ」と評しているレビュアーもいた。岡本太郎が「私の作品を見て、こんなの子どもだって描けるじゃないかと言う人があるが、そう思うなら自分で描いてみるといい。何にもとらわれずに描くことは、じつは子どもでも難しいのだ」というようなことをどこかに書いていたが、思わずその話を思い出した。たしかにピカソやマティスの作品も、そのへんにあったら「ただの落書き」に見えるかもしれない。知らないというのはすごいことだ。

内容だが、14ページから56ページまでが新たに寄稿されたもので、57ページから116ページまでの60ページはアルバム評(これも書き起こし。編集アルバム/シングル/インターネット配信なども含む)に充てられている。117ページから巻末までは「ミュージック・マガジン・アーカイヴズ」と題して、プリンスに関する過去記事のオムニバスになっている。

発売されてすぐに買い、ざっと読んでから本棚に入れっぱなしにしていたのだが、今回あらためて読み返してみて、ある特定の記事しか面白く読めないことに気がついた。高橋健太郎氏が書いた文章である。

雑誌とはいろいろな人が寄り集まって作るもので、載せられる文章の個性もさまざまであっていい。長年雑誌編集とライティングをやってきて、それこそが雑誌の面白いところだと、ずっと思っていた。ところが雑誌の世界を離れてからは(なぜ離れたかについては、いずれ別のエントリで書く)自分が本当に興味をもっているもの、今まで知らなかった角度からものごとを解説してくれるもの、こういった文章にしか興味がなくなってきたのである。対象をただ賛美するだけの文章、見てきたことを決まりきった紋切り型の表現で書くだけという記事(いわゆる感想文というやつ)には、少なくとも今の自分は興味がない。

たしかにヨタ話に終始して面白いエッセイ、ゆるさが味になって心地よい記事もある。ときにはそういったものも読むのだが、ここ最近、自分にとっての読書というのはネタ探しという側面がかなり強くなっている。それがために日本の小説もほとんど読まなくなった。まあ一種の職業病であると思う。

ぼくは高橋健太郎氏の熱心なファンではないし、書かれた評論を丹念に読んできたわけでもない。Twitterでの発言をTLで目にしたり、近著のひとつである『スタジオの音が聴こえる 名盤を生んだスタジオ、コンソール&エンジニア』を読んで感心したというくらいの、ごく平均的(平均以下か)読者にすぎない。では、彼が書く記事と他のライターが書く記事との違いとは、いったい何なのか。

思いきり単純化して書くと、高橋健太郎氏の仕事はいずれも「これはなぜこうなっているのか」「他の人は気づかないかもしれないが、これはこんな事情が関係してできたものなのではないか」といった疑問をもつところからスタートしているように見える。次におこなわれるのは歴史的事実をコレクトし、それと並行して、できうる限りの状況証拠を集め、ふたつを突き合わせて推論を展開することだ。

可能であれば関係者に話を聞いたり、現地で取材をするといったプロセスがさらに追加される。その上で全体を俯瞰し、自身の経験も踏まえて「この事実(アルバム/パフォーマンスなど)において鍵となる人、モノ、できごととは、これではなかったか」という検証とともにストーリーを展開する。

要するに筋立てというか構成がジャーナリスティックかつ論理的なのである。よくできたドキュメンタリー映画を観ている感じにちょっと似ている。プリンスの全盛期にエンジニアをつとめていたスーザン・ロジャースとコンソールの話など、非常に興味深く読んだ。

先日レビューしたマルコム・グラッドウェルも題材を選ぶのがうまいが、高橋健太郎氏もテーマの選び方、距離のとりかた、話の運びかたが非常にうまい。同じ方向性で仕事をしているぼくは「うめえなあ」と感心すると同時に、負けちゃいられないといつも思うのである。仕事のジャンルはまったく違うが、そういう人が同時代にいるというのは、いいことだという気がする。

うーん、ちょっと褒めすぎてしまったかな。