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「ゆるキャラ」じいさんの頭の中を読んでみる

「人生フルーツ」(2016年)という映画がある。名古屋市近郊、高蔵寺ニュータウンに住む津端幡修一(つばた・しゅういち)、英子(ひでこ)夫妻の日常生活を追ったドキュメンタリー。現在も細々と上映されていて、まだDVD化はされていないようだ。

この映画のプロデューサー、監督は東海テレビの人で、この映画をきっかけとしてアウトテイクのようなテレビ番組(居酒屋ばぁば 2017年)もつくられた。つばた英子、つばたしゅういち名義での書籍もけっこう出ている。手始めに『あしたも、こはるびより』(主婦と生活社刊。2011年)など読んでみた。

映画も書籍もアプローチはよく似ていて、高蔵寺ニュータウンに小さな畑をつくってくらす英子さん、修一さんご夫妻の日々の暮らしを追うというのが、ストーリーの軸となっている。キッチンガーデンと呼ばれる畑で採れる作物は野菜が70種類、果実が50種類。栽培はすべて無農薬、コンポストを使った土作りまで自分たちでおこなっている。敷地内に建つ母屋は建築家アントニン・レーモンドの自邸を模したもので築40年ほど。内部は間仕切りのないワンルーム構造だ。

映画も書籍も、どちらかというと英子さんに近い視点で編集されている。作物の収穫、下ごしらえと保存、やってきた人たちへのおもてなしなど、日常の中心となっているのは英子さんで、夫の修一さんは収穫作業を手伝ったり、得意な工作で農機具の整理や小さな看板づくり、自家製ベーコンづくり(ベーコンをいぶすためのスモーカーも手作りである)をしたりしている。多くの書籍には英子さんの手による料理レシピなども掲載されていて、これも人気となっているようだ。

修一さんはインタビューで「英子さんは、ぼくにとって最高のガールフレンド」と語ったりすることもあり、基本的に「夫婦仲良し物語」的なタッチでストーリーは進んでいく。観客や読者にとっての修一さんは素敵なだんなさま、一種の「ゆるキャラ」というか、そばにいて何かと手助けしてくれる「ドラえもん」のような存在だ。しかしぼくは修一さんという人が何を考えているのかが、とても気になった。

津端家のキッチンガーデンには、そこかしこに標識のようなものがあって、さまざまなことばが書きつけてある。植えてある作物の名前、頭上の枝や棚にぶつからないよう注意をうながすなどの実用的なものから、庭にやってくる鳥たちや来客へのメッセージなど、細かく見ていくだけでも面白い。そのなかにふと、哲学者の箴言が混じっていたりする。

たとえば「人は、次の世代に役立つようにと、木を植える」というキケロのことばが木製のプレートに書かれて外壁に打ちつけられている。キケロという名前の右側には(BC106)と書かれていて、よく見るとプレートの下には木製の台のようなものが見えている。打ちつけた釘を抜いて、ときどき新しい箴言に取りかえたりするのだろう。

というわけで調べてみたところ、津端修一さんが書いた『自由時間新時代 生活小国からの脱出方法』(はる書房刊 1989年)という本があることがわかった。

この本に掲載されている著者略歴によると、修一さんは1925年愛知県生まれ。1951年東京大学第一工学部建築学科を卒業後、1955年に日本住宅公団に入り、1969年に高蔵寺ニュータウン計画で日本都市計画学会石川賞を受賞。住宅公団時代に23の団地設計を手がけたほか、テヘランでイランのニュータウン計画にも参加した。1976年から広島大学総合科学部教授、1985年より名城大学理工学部教授、1987年から評論活動に入ったとある。この本の略歴からは省かれているが、大学卒業後、最初に入ったのはアントニン・レーモンドの設計事務所で、坂倉準三設計事務所にもいたことがある。ちなみに戦中は戦闘機のエンジニアをしていたらしい。

『自由時間新時代』の冒頭で、修一さんは自分たち夫婦がどのように歩んできたかを語っている。昭和30年に結婚、奥さんの英子さんは女学校に入るときに半田農学校に入りたいと言い出すような人で、ふたりとも外食というものをほとんどしたことがなかったこと。片道30分もかかる場所に一反の畑を借りて農作物をつくり始めたこと。

「一反の畑を借りよう」という発想は、アメリカの有機農業グループが提唱していた「1エーカーの土地を買おう」という運動を日本風にアレンジしたもので、一反は1エーカーのおよそ4分の1。同じ頃に有機農業研究会にも入ったという。

一反=1000平方米という畑の大きさは、農民が生活を自給・自立させる最小の単位であり、水田コミュニティの時代からの生活の知恵が注ぎ込まれてきた、日本の「単位」だとあとで知りました。
(自由時間新時代 Ⅰ ある生活シナリオから)

1976年、広島大学へ勤めることが決まると津端さん夫妻は「広島駅から約四〇キロほど離れた田舎の、世帯数一六戸の小さな農業集落」へと移り住む。「広大移転が予定されている東広島市の現地に住みこまなければ、きめの細かい町づくりのお手伝いはできないと考えたからです」と修一さんは書いている。田舎暮らしでさまざまなことを学ぶ一方で農村の現実も目にした。もっとも大きな問題は農薬汚染だったという。

(前略)お隣のYさんは「山河」という文芸雑誌を編集したり、息子さん二人をそれぞれ東大・早大を出させた、ものの分かった農家でした。農薬についての批判も人一倍もった方でしたが、それでも日常の農業環境は農薬を排除して成り立つものではなかったようです。この鍵谷という集落では、四月になると水田に水を入れ、すぐに農薬を撒きます。すると、それまで鳴いていた蛙がいっせいに鳴きやんでしまって、レイチェル・カーソンの有名な『沈黙の春』(新潮文庫)の世界を実際に体験することになりました。
(自由時間新時代 Ⅰ ある生活シナリオから)

水道のない集落では井戸水を飲料水として利用していたが、その水も農薬で汚染され、飲むと身体に発疹が出るようになった。広島大学で出してもらった薬を飲んでも治らなかったのに、井戸水を飲むのをやめると治ってしまう。「農村の内側で生活するのと、外側から見るのでは随分と違うものだという危機感をますます深めたものです」と書く、リアルな農村体験が、その後のキッチンガーデンにつながっている。津端家には大量のミネラルウォーターの空き箱があり、映画のなかでもその空き箱を使って仕分け作業をするシーンが出てくるが、あれはおそらくふたりが普段使っている飲料用の水だろう。水や食べ物の安全にこだわるのは、このような実体験があったからだ。

修一さんと英子さんの半生がよくわかって面白い『自由時間新時代』だが、海外の生活事情、都市設計などを語るⅡ章以降は読み進むのにちょっと忍耐がいる。なんというか海外視察報告みたいなタッチで、率直に言って読んでいて面白くないのである。

巻末の初出一覧をチェックしてみると、Ⅰ章の「ある生活シナリオから」は『田舎暮らしの本』(JICC出版局刊 1988年)のために書かれたものだが、Ⅱ章以降は『技術と経済』『月間レジャー産業』『中日新聞・東京新聞』『環境情報科学』『農林統計調査』『農村計画学会誌』というように業界誌、学会誌、新聞向けに書かれている。一般読者向けにⅡ章以降を全面的に書き直すべきだったと思うが、この内容で編集者は疑問をもたなかったのだろうか。

修一さんが高蔵寺ニュータウンで実現したかったのは、自然と共生する豊かな暮らしと、そのための住まいであり、その先にある「生活大国」への道だった。実際の日本がいかにその理想とかけ離れているかは『生活小国からの脱出方法』というサブタイトルにも、よくあらわれている。この本が出版された1989年はバブルの最盛期だが、このときも生活環境はまったく改善などされていなかった。

みんな老後に夢を描きたいのです。わずかな年金や貯金の目減りにびくびくしながら、都会の片隅で、ただ細々と生き延びるだけの老後なんか、待ちたくありません。しかし、現実に、明るい老後の夢が描けない人がどれだけいるでしょう。みんなが不安を持っています。日本は豊かになったといい、黒字がたまって円の値打ちがどんどん上がっているといいますが、その実感は個人のレベルではひとつもありません。もやもやとした不満が人々の間には深く淀んでいます。
(自由時間新時代 Ⅰ ある生活シナリオから)

黒字や円高の下りを除けば、この言い分は、ほぼそのまま今の日本にも当てはまる。やはり修一さんは英子さんの後ろで微笑むただの「ゆるキャラ」ではなかったのである。

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