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ニューロン発火で神田古書店街に呼ばれる話

不朽の名作、歴代ランキングトップ5に入るような「結構なもの」には長いこと興味がなかった。音楽ならビートルズ、ビーチボーイズ、レッド・ツェッペリン、昔の洋画なら「風と共に去りぬ」「ベン・ハー」「ウエストサイド・ストーリー」(ちょっと旧すぎるか)、そういうものはなるべく避けておきたい、そういう考えだったのである。

宗旨替えをしたのはおそらく今から7〜8年前のことで、手始めにビートルズのアルバムを発売された順に全部聴いてみたりした。それまでビートルズのアルバムを一枚も聴いたことがなかったので、それはそれで面白い経験ではあったけれど、残念ながらそれがきっかけでファンになったりということにはならなかった。名作と呼ばれる映画も気が向いたら観る。本も同じだ。

元々その都度興味のあるものを手に取ってきただけで「押さえておくべき作品を網羅的に読んで/聴いて/観ておこう」みたいな考えかたをしたことは、ほとんどない。興味の対象が散らばっているせいで結果的にいろいろなものを網羅したような形にはなったが、クロニクル的視点が決定的に欠けているので、ところどころかなり大きな穴が開いていることもある。残り時間も限られていることだし、まあしかたのないことだと思う。

というわけで(どういうわけだ)先日は「Shaft」(リチャード・ラウンドツリー主演。1971年作品)を観た。

この映画、「黒いジャガー」という、ものすごいセンスの邦題がついているのだが、今観てもなかなかいける。主人公のシャフトがスーパーマンすぎて、まったくストレスを感じさせないところがいい。ところがそのうちに、なぜかロバート・アルトマンの「The Long Goodbye(邦題:ロング・グッドバイ。エリオット・グールド主演 1973年作品)」が観たくなってきた。どちらも私立探偵ものでアウトキャスト的人物が主人公だからかもしれない。

ロング・グッドバイはレイモンド・チャンドラーの名作『長いお別れ』の映画化で、ロバート・アルトマンは時代設定を1970年代に移し(オリジナルの小説は1949〜1950年という設定)独自の解釈をかなり加えている。とくにミセス・ウェイドの運転するメルセデス(SLのコンバーティブル)をマーロウが走って追いかけるシークエンスが秀逸だ。夜のLA、ジャズ、走っても走っても遠ざかっていく女の幻。小説にこのシーンはない。映画にしかできない表現で、予告編でもこのシーンが効果的に使われている。

アルトマンの描く世界は猥雑で、くたびれて、くすんでいる。登場人物の多くは口が減らないが、どこかユーモラスで憎めない。松田優作の「探偵物語(角川映画ではなくテレビドラマの方)」がこの映画の影響を受けて作られたことは疑いがないし、他にもそういった作品は山ほどあるはずだ。関川夏央・谷口ジローの『事件屋稼業』もそうかもしれない。
(追記 「探偵物語」はファッション、編集など「Super Fly(1972年)」の影響も大きいと思う)

主人公のエリオット・グールドを見ていると、先日亡くなったアンソニー・ボーデインの若い頃を思い出す。映画好きだったトニーは、この映画を何度も観てマーロウの真似をしたのではないだろうか。表情、立ち振る舞いなどがよく似ている。彼のベストセラー『キッチン・コンフィデンシャル』の書評にたしか「料理界のジェームス・ディーン」と書かれたものがあったが、本当は「料理界のフィリップ・マーロウ」あるいは「料理界のエリオット・グールド」と呼ぶのが正解だったのではないか。

などと思いながら「The Long Goodbye」を観ていたら、今度はレイモンド・チャンドラーの小説が読みたくなってきた。海外小説に疎かったぼくは、この小説も読んだことがない。調べてみると『長いお別れ』のタイトルで長年親しまれてきたのは1958年の清水俊二訳で、2007年に新訳版が出ていることがわかった。訳したのは村上春樹。Amazonのレビューなどを見るとかなり丁寧かつ正確に訳されているらしい。タイトルも『ロング・グッドバイ』とあらためられた。


(早川書房刊 装丁はチップ・キッド)

以下、読んでみての感想。

・簡潔な文体でセンテンスが短く魅力的
・初期の村上春樹作品はレイモンド・チャンドラー、とくにこの作品に影響を受けていると思う
(シーンや登場人物の絡みかた、場面転換の鮮やかさなど)
・フィリップ・マーロウには内面がほとんどなく、一種のブラックボックスのような人として描かれている
・フィリップ・マーロウはハードボイルドというより、むしろロマンティックな男である
・映画よりも登場人物が多く、複雑なストーリー
・映画よりも神経症的、陰鬱なシーンが多いが過度ではない
・テリー・レノックスが非常に魅力的に描かれている

この作品の主人公はテリー・レノックスと言ってもいいくらいで、ラストシーンも見事なできばえだ。レイモンド・チャンドラーの文体の斬新さ、チャンドラーとフィッツジェラルドの類似性などについては、訳者あとがきで村上春樹が詳しく書いている。この「あとがき」だけでも新訳版を読む価値はある。

ディケンズの『二都物語』を読んだときはラストシーン(断頭台のシーン)の上手さに感心したが、『ロング・グッドバイ』は全編独自のスタイルで貫かれており、しかも適度なスピード感がある。ハードカバーで500ページを超えるにもかかわらず、するする読めるのは書き手にかなりの力量があるからだ。村上春樹テイストをほとんど感じさせない硬質なタッチの翻訳にも好感がもてる。

ここまで上出来だと英語版が読みたくなってくるが、現在出ているペーパーバックにはダイジェスト版もあり、電子書籍版にはスキャン時に起きたと思われる誤植も見受けられるという。できたら店頭で、さらにかなうなら古本で手に入れたいが、神田の古書店に、そう都合よく古本はあるのだろうか。

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