X

ジェマーソンとはオレのことかとジェイマソン言い(字余り)

エレキベースを真面目に弾くようになったきっかけはたしかTower of Powerだった。結成40周年のライヴDVDが出てあらためてハマり、ブルーノート東京の公演も観に行った。デヴィッド・ガリバルディ、ロッコ・プレスティア、チェスター・トンプソンのリズムセクションはまさに無敵。(そういえば宇宙最強のファンクバンドというキャッチフレーズもありましたね)

(1973年のライヴ映像。曲はWhat is Hip)

TOPのベーシストであるロッコ・プレスティアは当初ギタリストとしてバンドに加入したが、あまりの下手さにメンバー全員、これは使えないと思ったという。で、リーダーのエミリオがロッコ(当時まだ17歳くらいだったそうである)を楽器店に連れていき、エレキベースを買ってベースを弾けと命令した。幸運なことにロッコはベースに関してはものすごい才能をもっていて、唯一無二のプレイスタイルを確立してしまうのである。

(1998年のイベントThe Bass Dayのステージ)

ロッコのプレイは16分音符とミュート(ゴーストノート)の多用で知られるが、ミュートはほぼ左手で行っているようだ。そのためポジション移動がやたらと多い。(運指は人差し指から始まり、残りの指でミュートする。ミュートはしないときもある)パーカッシブでじつに格好いいのだが、音数が多すぎて演奏していると肩が凝る。

以来、好きなベーシストはソウル、ファンク系の人がほとんどである。とくに好きなのはジェイムス・ジェイマソン(The Funk Brothers)、ベルナルド・エドワーズ(Chic)など。アンソニー・ジャクソンも好きだが、あんなに緻密なプレイをしていたらすぐに疲れてしまいそうだといつも思う。

スラップ系は自分ではあまり熱心に弾こうとは思わないがルイス・ジョンソン、ラリー・グラハム、初期のマーカス・ミラーなどはけっこう好きでよく聴く。エイブラハム・ラボリエルやチャック・レイニーのグルーヴ感はどうやったら出るのかと思うし、ピノ・パラディーノの独創的スタイルも好きだ。ウィル・リーのプロフェッショナルぶりもすごい。ジャコ・パストリアスは偉大だが自分で弾こうとはまったく思わない。スタンリー・クラークやヴィクター・ウッテンも以下同文。要するにテクニック志向とは正反対を向いているのである。

というわけでジェイムス・ジェイマソンについて書く。これまた前に書いたが彼のカタカナ表記は「ジェームス・ジェマーソン」である。ところが映画『Standing in the Shadows of Motown』のなかで同僚ミュージシャンたちはみんな「ジェイムス・ジェイマソン」と発音しているのだった。その昔「ギョエテとは、俺のことかとゲーテ言い」という川柳があってこれは稀代のひねくれ者、斎藤緑雨の作らしいが、ジェイムスが生きていたら「ジェマーソンって誰のことだ」と言ったかもしれない。

全然関係ないがホイットニー・ヒューストンも日本でのカタカナ表記に不満を持っていて、亡くなる前の日本ツアーでも観客に正しい発音を教えていたという話を聞いた。(ちなみに英語話者の発音をできるだけ忠実にカタカナに直すと彼女の名前はウィットニィ・ヒューストンなのである)

ジェイマソンのプレイスタイルはよくメロディックで音数が多く大胆だと言われる。これはモータウンの作曲家たちが基本となるベースラインだけ指定して、あとはジェイマソンにアドリブで弾いてくれ、と頼んでいたことも大きかったようだ。譜面はコード譜だけということもあったという。最初に演奏していたのはアップライトベースで1962年あたりにフェンダーのプレシジョン・ベースに切り替え、以後はずっとこのPベースを弾いていた。アンプは小さなホールではアンペグのB-15、出力が足りないときはスピーカーを接続して使い、大ホールではカスタム(Kustom)のアンプヘッドとスピーカーのセットを使っていたそうだ。

コントロール系はアンペグはベース、トレブルともフルアップ、カスタムはベースがフルアップでトレブルが真ん中ぐらいだったとドクター・リックスの本には書いてある。楽器側はボリュームもトーンもフルアップで音色のコントロールは手だけでおこなっていた。といってもジェイマソンは右手をピックアップカバーの上に軽く置いて弾くスタイルだったから右手の演奏位置を変えることはあまりしなかったと思われる。

現存するジェイマソンの映像はかなり少ないがプレイスタイルがよくわかるのはマーヴィン・ゲイの「What’s going on」だろうか。1972年の映像。

マニアの人には常識かもしれないが、ジェイマソンは弦を弾くとき右手の人差し指だけしか使わない。この指は「The Fuck(ザ・フック)」と呼んでいて、62年のPベースのことは「The Funk Machine(ザ・ファンク・マシーン)」と命名していた。純正パーツはPUカバー、ブリッジカバーなどすべて付いたままで弦はLa Bellaのフラットワウンド、ヘヴィーゲージ。弦は切れないかぎり張り替えない。唯一の改造点はネックの根元付近にFunkという文字を彫り、そこにブルーのインクを流し込んだことくらいだった。

Pベースのブリッジカバー内側にはフォーム材が貼られていたそうだが(*この件、筆者は未確認。ブリッジ前側にスポンジ・フォームを挟んでミュートする手法は現在でもよく見られる)ジェイマソンは弦高を思い切り高くして音が最大限ミュートされるよう調整していたという。他のベースプレイヤーがあれでは弾けないと驚くほどで、彼の演奏でフレットノイズがほとんど聴かれないのはこのせいだ。スタジオで共演したこともあるボブ・バビットは「ジェイマソンの左手はアップライトベースそのままのプレイスタイルだった」と証言している。

https://www.musicradar.com/news/bass/james-jamerson-11-iconic-basslines-594991
(MUSICRADARによる「ジェイマソン11のアイコニック・ベースライン」という記事)

1972年にモータウンがLAに移転したときにはジェイマソンも西海岸へと移り住んだ。この移転は突然決まったそうでデトロイト在住のスタジオ・ミュージシャンたちは、そのままデトロイトに取り残された。(前出のボブ・バビットはこの時期プロレスラーに転向したりしている)そして、そのジェイマソンも翌73年にはモータウンとの契約を切られてしまうのである。

LAの音楽環境は残念ながらジェイマソンには合っていなかったようだ。LAではクリアなトーン、正確なピッチ(音程)、譜面通りの演奏を好むプロデューサーが多く、張りっぱなしで死んだ弦、ピッチの定かでないファットでくぐもったトーン、アドリブで真価を発揮するという彼のプレイスタイルは、まったく評価されなかった。セッションに呼ばれたものの、その場で帰れと言われたこともあったという。セッションに参加していたギタリストが見かねてラウンドワウンド(フラットワウンドよりもブライトなトーン)弦を買ってきたが、張り替えることを拒否して帰ったという逸話も残っている。

その後の彼のキャリアは「長い下り坂」だった。仕事は次第になくなり、それと反比例して酒量が増えた。晩年は精神的にも不安定になり、まわりから厄介者と呼ばれるようになっていく。1983年にはモータウン25周年コンサートが開かれたが、このときジェイマソンは招待すらされず、バックステージに入ることもできなかったという。

このコンサート、ジェイマソンは自分でチケットを買って観に行った。席は2階バルコニー席。かつて自分たちが録音したヒットパレードを聴きながら彼が何を思っていたかは、今となってはもうわからない。モータウンの音楽に必要不可欠な存在、とまで言われたジェイマソンはそれからまもなく肺炎で亡くなってしまう。47歳だった。

その後、長らく「モータウンのベースのやつ(ビートルズのメンバーの間でもたしかこう呼ばれていた)」だったジェイマソンは2000年にロックの殿堂入りを果たしている。

https://www.rockhall.com/inductees/james-jamerson
(Rock & Roll Hall of Fameのウェブサイト)

The Funk Brothersのドキュメンタリー『Standing in the Shadows of Motown』が制作・公開され、無名のミュージシャンたちがようやく脚光を浴びるようになるのは2002年。ジェイマソンの死から数えて19年の月日が経っていた。

Related Post