カルロス・カスタネダ『ドン・ファンの教え』初期四部作を読んだあと、副読本として真木悠介著『気流の鳴る音 交響するコミューン』を読んでみた。カスタネダの翻訳者が解説で資料としても思想としても優れているので一読を勧める、みたいなことを書いていて、それなら、ということで手に取ってみたのである。
(2003年刊のちくま学芸文庫版)
オリジナルの単行本は1977年5月20日、筑摩書房からの刊行で収められている文章は73年から76年の間に書かれたものだ。2003年版ちくま学芸文庫のあとがきには「インドとヨーロッパ、メキシコとアメリカ合衆国、ブラジルとラテン・アメリカ諸国への旅の終わりに、夏の暑い日に一気に書かれた」とある。本を書いたきっかけは「〈近代のあとの時代を構想し、切り開くための比較社会学〉という夢の仕事の、荒い最初のモチーフとコンセプトを伝えるために、カスタネダの最初の四作は魅力的な素材だと思えたから」だったそうだ。
内容はカスタネダ四作の分析、解説が中心となっているのだが、読んでいくと話は途中で意外なところへ飛んでいく。山岸会、紫陽花邑、鶴見俊輔や学生運動家たちが関わった「交流(むすび)の家」、水俣病、石牟礼道子と『苦海浄土』、カルロス・サンタナの「キャラバンサライ」。どれもこの5年ほどの間に仕事で関わってきたジャンルと関わりが深い。たまたま手に取った本に、なぜこうした身近なサブジェクトばかり続けざまに出てくるのか、かなり不思議な気がした。(読後しばらくして石牟礼道子さんの訃報にも接した)
しかもこの本、1977年に出版されたものなのだ。3.11以降、個人的に興味を持って関わってきた題材が40年前に出た本にまとめられている──。こういう体験は、もちろんとても楽しい。と同時に、自分はとてつもなく時代遅れなのではないか、とも思ったりした。
著者の真木さんはこの本を「近代のあとの時代を構想し、切り拓くための比較社会学」、そのための荒い最初のモチーフと呼んでいるが、書かれている内容からは「失われつつある自然(=地球)と人とのつながり」という要素も色濃く感じられる。「疎外され、虐げられた弱者から見る社会」という視点も特徴的で、それは社会の歪みを直視し向き合わなければ、何ひとつ変えられっこないじゃないか、という直感からきているように思われた。
大きな挫折や失敗を経ても、それまでのシステムを変えず(変えられず)なし崩しのまま進んでいく。エラーを起こしたシステムを放置している以上、その先に待っているのはより大規模な破局でしかあり得ないのだが、とりあえず今さえ取り繕えればそれでいい。そういうやりかたで日本はやってきた。コントロールの効かなくなった関東軍など、まさに日本そのものだったという気がするのだが、その失敗の経験は敗戦を経ても活かされなかった。
3.11以降、日本社会の歪みはますますひどくなっている。自然破壊も進み、人はますますエゴイスティックになっているように見える。社会の一体感も薄れ、ごく一部の「もてる者」と圧倒的多数の「もたざる者」に分断されてから、もうかなりの時間が過ぎた。格差も絶望的なまでに広がっている。その社会を資本家と政治家は、さらに破壊しようとしている。「近代のあとの時代」どころか日本は前近代へと回帰しようとしているかのようだ。
『気流の鳴る音』から40年、真木さんはいま何を思っているのだろうか。