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カスタネダ初期四部作を今ごろになって読み直す

西洋的二元論で世界は本当に記述できるのだろうか。それ以外に記述や把握する方法ってないのだろうか。こう書くとなんとも高踏的、形而上的ではあるけれど、ちょっと気になって参考書になるようなものを読んでみた。

 

今となっては懐かしい感じさえする『ドン・ファンの教え』初期四部作。著者はカルロス・カスタネダで、ペルーのカハマルカ生まれ。生年は1925年ということになっているが1931年という説もあるらしい。小さい頃にアメリカに移住し1957年にアメリカの市民権を取得している。『ドン・ファンの教え』から三作目の『イクストランへの旅』まではカスタネダがUCLA(the University of California, Los Angeles)在学中に書いたもので、第一作目となる『ドン・ファンの教え』の初版は1968年。原題は『The Teachings of Don Juan: A Yaqui Way of Knowledge』といった。『ドン・ファンの教え〜あるヤキ族の知』とでも訳せばいいのだろうか。ヤキ族(Yaqui)とはインディアン部族の名称で、おもにメキシコのソノラ州、アメリカ南西部などに住んでいたという。

本ではUCLAで人類学を学ぶカスタネダがヤキ族の呪術師、ファン・マトゥスから伝授された呪術師修業の様子が描かれる。1968年といえばサンフランシスコを中心としたヒッピームーブメント『サマー・オブ・ラブ』の真っ只中という時期である(サマー・オブ・ラブは1967年に始まったとする説もあるらしいが、細かいことはさておく)。前年の1967年にはモントレー・ポップ・フェスティバル(ジミ・ヘンドリックスやジャニス・ジョプリンが注目されるきっかけとなった)があり、翌年1969年8月にはウッドストックが待っている。そういうタイミングもあってカスタネダの本は一躍ベストセラーとなった。

初期四部作を出版順に並べると以下のとおり。括弧内はアメリカにおける初版年。

『The Teachings of Don Juan: A Yaqui Way of Knowledge(1968)』
『A Separate Reality: Further Conversations With Don Juan(1971)』
『Journey to Ixtlan(1972)』
『Tales of Power(1974)』

日本での初版を時代順に並べてみる。

『呪術師と私-ドン・ファンの教え 真崎義博訳 二見書房(1972年)』
『呪術の体験-分離したリアリティ 真崎義博訳 二見書房(1973年)』
『呪師に成る-イクストランへの旅』 真崎義博訳 二見書房(1974年)』
『未知の次元-呪術師ドン・ファンとの対話 名谷 一郎訳 講談社〈1979年)』

第一巻はアメリカでの出版から4年遅れ、二巻と三巻は2年遅れで、初期四部作の完結編は5年経ってからの出版であることがわかる。原題は『Tales of Power』だから、そのまま素直に訳すなら『力の話』となるところだが、邦題は『未知の次元』。ベストセラーの完結編ということで講談社が権利を獲得し、翻訳者もそれまでとは別の人をあてた。単行本の装丁は横尾忠則氏。こんなところからも講談社の力の入れようがうかがえる。

カスタネダの著作はその後もつづくのだが、それらはふたたび二見書房から出版されていて、こんな感じのラインナップになっている。


(これは夢見の技法の巻末だったか)

ドン・ファン初期四部作は、2012年になって新装版が出た。版元は太田出版だが翻訳は二見書房時代と同じ真崎義博氏である。第四巻の『力の話』は当初2013年を予定していたが、訳文の見直しなどに思いのほか時間がかかり、2014年春に上梓された。というわけで『Tales of Power』については旧版と新版(翻訳者は違うが)も比べ読みしてみた。一読して誰でも気づくのは『未知の次元』の訳文の旧さ。1979年と2014年、35年の隔たりがあることを考えれば、これは致し方ないといったところか。ドン・ファンとカスタネダの対話も、なんともかたい。こんな感じである。

「どんな音なのだろうか、ドンファン?」
「それは私の助けになるのだろうか?」

旧版での収穫は青木保氏による解題。タイでの一年以上におよぶ修行僧生活をふまえたテラワーダ仏教との比較など、けっこう興味深い。こんな解説もある。

トナール=サミュッティ・サッチャ……実証の世界 時間と空間の中に位置づけられ、実際に感じられるものと中小とによってとらえるものの両方から成り立つ多彩な対象化されたイメージの現実
ナワール=パラマッタ・サッチャ……究極的ないしは純粋な現実 時間と空間の中に位置づけられず、五感で感じられる性質をもたず、カーナ(無空)から成り立つもの

ちなみに青木保氏は文化庁長官などを経て国立新美術館館長、そういう経歴の方である。

個人的には真崎訳で初期四部作が揃ったことは非常に喜ばしいことだと思う。ドン・ファン、ドン・ヘナロ、カスタネダの会話は、やはり真崎訳がもっともしっくりくるからだ。それにしても35年は長かった。

カスタネダの最後の著作である『無限の本質-呪術師との訣別 結城山和夫訳(2002年)』はカスタネダの死後出版された。どの本にも共通していることだが、カスタネダはドン・ファンからの教えとその後日譚を、何度もバージョンを変えて書いている、という印象がある。巻を重ねるにしたがってあたらしいエピソード、登場人物、カスタネダのプライベートなどが語られるが、核となっているのは初期四部作だ(ぼくは初期四部作の三巻と四巻も最初の2冊を語り直したものという印象をもっている)。結局、カスタネダは『ドン・ファンの教え』を生涯書き続けた人だったのかもしれない。

ドン・ファンシリーズを読んだからといって呪術師になれるわけではないし、そのための細かいメソッドが書かれているわけでもない。ドン・ファンやドン・ヘナロといった人物との会話を通して「この世界には西洋的二元論ではとらえきれない知の体系がある」「記述できない領域(ナワール)も含めた全体こそが世界なのだ」という教訓が繰り返されるだけともいえる。

だが「目で見えるもの、科学で説明できるものだけが世界のすべてなのか」という疑問をもつことは現代人にとって一定の意義があるような気がする。そっちばかりに偏ってしまうとスピリチャル系の人になってしまうが、科学万能説だけというのもかなり危うい。

ところでカスタネダの著作は大部分が創作であって実話ではない、とする説が世の中には多くある。いわゆる偽書説で「偽書だったとしても物語としてすぐれているのだから問題ないではないか」と擁護する人もいる。でも、どっちでもいいのではないだろうか。現実と非現実、実話と虚構を腑分けしていっても何も得られないのでは意味がない。もしここにドン・ファンいたら、こんなことを言うだろう。

「ここに書かれていることが本当にあったか、そうでないかったかはまったく問題じゃない。大事なのはここで起こったことを“見る”ことだ」

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