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アンソニー・ボーデインの歩みを振り返る | 本と映画とMusic
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アンソニー・ボーデインの歩みを振り返る

アンソニー・ボーデインの番組を最初に観たのはいつ頃のことだっただろうか。

 

スカパー! のディスカバリーチャンネルで放送されていた「No Reservations(邦題:アンソニー世界を喰らう)」を偶然見かけて録画するようになった、ということは覚えているのだが、それがいつのことだったかはよくわからない。アメリカでの放送開始が2005年だから、その2年後くらいに日本で放送が始まったとして2007年くらいのことだろうか。当初は字幕放送だったので英語のお勉強も兼ねて観ていた記憶がある。

アンソニー・ボーデインは1956年ニューヨーク生まれ。幼い頃にニュージャージーに移り、そこで育った。その後、紆余曲折を経てニューヨークのレストラン「Les Halles」のシェフとなる。料理人稼業のかたわらニューヨークタイムズなどにエッセイを執筆。2000年に上梓した「Kitchen Confidential ~Adventures in the Culinary Underbelly(邦題:キッチンコンフィデンシャル)」がベストセラーとなった。いわゆるセレブシェフのひとりである。

といっても自分にとってのトニー(彼の通り名はアンソニーではなく、トニーなのだ)は、長いこと「世界中を旅しながら悪態をつき、ひたすらメシを食いまくる背の高いアメリカ人」にすぎなかった。過去の出演作や著書に目を通すようになったのは、だいぶ経ってからのことだ。最初のテレビシリーズが「A Cook’s Tour」というタイトルだったことや、日本でも翻訳された著書が手に入ることを知ったのは、おそらく2011年以降のことだったと思う。

2011年には「The Layover(邦題:アンソニーの世界弾丸ツアー)」というシリーズが始まった。タイトルの通り世界各地の都市を24〜48時間ほどの短時間で駆け巡るというものだが、滞在時間が本当に24〜48時間であったかどうかはわからない。「No Reservations」でエミー賞なども受賞したあとのシリーズなので、短時間のうちに追われるように旅をする、というのは単なる演出だったのではないかと、ぼくは思ったりしている。

このエントリを書くにあたって家の本棚を探してみたのだが、あったのは2006年に出版された「The Nasty Bits(邦題:はみだしシェフの世界やけっぱち放浪記 日本語訳は2011年発行)」と「キッチンコンフィデンシャル」の英語版ペーパーバックだけだった。「キッチンコンフィデンシャル」の方は2006年以降に出た「Updated Edition」という版で、巻末にあらたに書き下ろされた「あとがき」、著者インタビューなどが付録としておさめられている。

深夜まで働くシェフがよく原稿を書けたなと思ったのだが、トニー自身の説明によれば毎朝5時か6時に起きてかならず原稿を書き、それから仕事に行っていたそうだ。深夜までキッチンで働いていた男が5時起きでラップトップPCの前に座る。それも毎日。毛沢東の革命三原則ではないけれど「キッチンコンフィデンシャル」を書いたときのアンソニー・ボーデインは、若くて、無名で、ハングリーだったのだ。

毒舌であることには今も変わりがないのだが、エッジが立っていて面白いのは断然「キッチンコンフィデンシャル」だ。まともな人生からドロップアウトし、ドラッグ中毒に陥った男が生還して語る自分史、というリアルな雰囲気が行間からにじみ出ている。それと比べると「はみ出しシェフ〜」は安定しているが、すごみがない。この本は過去に書いたエッセイを一冊にまとめたものだが、これも初期に書かれたものほど面白い。要するにトニーは2006年までにかなり「やわ」になっていたということだ。

テレビ番組のホスト役となり、世界中の有名シェフとも友達になった。エミー賞も獲った。もはやキッチンに立つことはなく、手もハンドクリームのモデルができるのではないかと思えるほど柔らかくなってしまった。名声もカネもそれなりにある。そうした状況下で書いた文章からエッジが失われていく、というのはある意味、当然のことなのかもしれない。メディアや業界人と利害関係ができたりすれば、なおさらのことだ。

2013年からは「Parts Unknown(邦題:アンソニー世界を駆ける)」と題した新シリーズが始まっている。アメリカでのオリジナル放映はCNNで、トニーも番組のなかで冗談めかして「尊敬される仕事だ」とコメントしたりしている。番組の内容は政治問題を扱う比率が高くなった。2016年にはベトナムでオバマ大統領(当時)とも一緒に食事をしている。番組の中だったかSNSだったかは忘れたが「代金はおれが払った」と言っていたような気がする。ベトナムの物価は安い。それを自慢するというのは、それはそれで気の利いた冗談ではある。

トニーの20年近くにおよぶ歩みを見ていると、人はまわりの環境によって簡単に変えられてしまうものだ、ということがよくわかる。普通、人は「確固とした自分というものがあり、その価値観に従って生きている」と考えるものだが、その自分というものがそもそも、まわりの環境次第で気づかないうちに変わっていってしまうものなのだ。

それが悪いと言いたいのではなく、だからこそ環境を選ぶときにおこなう「決断(Make a Choice)」が重要なのだ、ということだ。ぼくはそれを「かつてハングリーだったシェフの20年近くにおよぶ変化」から学んだ。トニーはもう長らく本を書いていない。多くの人は彼を単にセレブリティ、テレビタレントとして認識しているだろう。いつのシリーズだったか忘れたが、ニューヨークを紹介する回でトニーは自嘲気味にこんなことを言っていた。

「白状する。おれは今、アッパーイーストサイドに住んでいる。おれはダークサイドに墜ちたんだ」

 

(追記)2018年6月8日、アンソニー・ボーデインの死亡が伝えられた。死因は自殺とみられる。

(追記2)最後のアッパーイーストサイドの下り、トニーが亡くなったこともあり、何のシリーズだったか探してみた。正解はThe Layover Season1のNew York。このエントリを公開したときは完全に記憶だけで書いたのだが、ちょっと表現が違っていたので以下、トニーの言葉を摘記しておく。

So this is close to where I live. I know what you’re thinking, and you’re right. Upper East Side, man, you’ve gone over to the dark side. Yes, yes I have.

(ここからちょっと行ったところに今住んでる家があるんだ。みんなこう思っているだろ、“なんだアッパーイーストサイドに住んでるのか、お前ダークサイドに墜ちちまったな”って。(その中傷は)当たってる。そう、おれはダークサイドに墜ちたんだ)

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